珠洲市への支援
3月13日〜16日にかけて、能登半島の珠洲市へ支援活動を行わせて頂きました。
行くきっかけになったのは、加賀の林さんの運営するシェアハウスへ避難してきた40代のIさん
の依頼です。実家を片付け必要なものを運び出したいということでした。
そのIさんから聞いたお話は次のような内容でした。
年末は震度5、1月1日は震度7、家は傾き家財道具はあっちこっちへと散らばり、タンスなどは
上半分が飛んでしまっていました(写真)。家族は全員無事でした。
Iさんは地震の後骨折をし病院に行きましたが、まさに野戦病院という感じで処置も十分といえ
ず、次の病院で手術となりました。
いろいろ支援していただき感謝しています。支援物資もたくさんいただき、
今は炊きだしの温かいご飯がうれしい。自衛隊にも支援いただいています。
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(写真は物資記入用紙)
何が辛いか、先の見通しがたたないことです。家を建て直すにしても、
地盤からでとても資金が足りません。まだ家族が見つからない人もいます。
13日に加賀市へ入り、支援計画の打ち合わせと休憩を取り、14日の朝に珠洲市へと向かいまし
た。能登半島の先の珠洲市までは、道は一本道で道中崖などもありまだまだ整備途中でした。
加賀市から珠洲市へは、約5時間半で到着しました。
はじめに少し大きな避難所へ向かいました。車中からの風景が、全壊している家ばかりへと変わ
りました。3月10日ようやく水道が開通したところへ、支援物資を運びました。
そこでは様々な人のお話を聞かせて頂きました。
「私達を忘れてられていない気持ちが嬉しい」「大阪からわざわざありがとう」と感謝の言葉を
頂きました。
そして、まだ水道が復旧していないところの集落へ行き、倒壊しそうな住宅の中に入り、大切な
思い出のあるものを二次避難所へ運ぶ作業を行いました。
もうこの集落の半分の住民は市街へ行き、地方に住む子どものところへ避難した人もいます。
この集落への水道の復旧も目処が立ちません。落胆していたなかでも、感謝の気持ちを頂きまし
た。
その後、被害が相当酷い海岸付近へ行き、見附島の崩れ果てた様子を見て、言葉を失いました。
復興までの道のりは、相当な時間、10年くらいはかかると思いました。
私たちは、今後も継続して能登半島の復興支援を行っていきます。
阪南市から能登へ行った二人から聞いた話をまとめました。
また、古くから伝えられている言葉「能登はやさしや、土までも」が心に残ります。
阪南市から能登へ行った二人から聞いた話をまとめました。
また、古くから伝えられている言葉「能登はやさしや、土までも」が心に残ります。
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